地球は、未来の子供達からの「借り物」

メッセージ

私たちは、地球を借りている

アメリカ先住民の有名な言葉があります。

地球は先祖から譲り受けたものではない。
子孫から借りているものだ。

私たちがそれぞれに生きている時間、地球という場を使わせてもらっています。

ひとりが長くて100年ほど。
76億人が。

この間、私たちは地球を借りています。

でも、私たちには借りている自覚がありません。

人に本を貸して、それが汚れて返ってきたら?
道具を貸して、壊れて返ってきたら?

もしあなたが、未来の子どもだったら…いまの時代に生きる私たちを、どんな心境で見ているでしょうか。

そんな私たちも、祖先から見れば、未来の子どもたちです。

いまの豊かな社会がある反面、何かの代償が生まれています。

あたりを見渡せば、汚れた河川や海を見て、残念に思うことばかり。

でも私たちが心を痛めるのは、その瞬間だけ。

すぐに忘れて、便利なものに頼ってしまいます。

厄介なのは…汚している自覚がないこと。

私たちは、キレイな海が好きです。

いつも見ている水道から出る水のように、透明な海が。

そんな私たちは、わざわざ遠いキレイな海まで行きます。

しかし、

地球を汚しながら移動し、海を汚して返ってくるのです。

厄介なのは、汚している自覚がないということ。

空気は木々がキレイにしてくれて、水は下水処理場がなんとかしてくれて、川や海がなんとかしてくれる・・・そんな風に他人任せになっています。

しかも安く早く便利に・・・利用した現地で出るゴミや汚れたものの行方を見守ることもありません。

よく考えれば、自分勝手ですね。
とっても狭い範囲にしか意識が回っていません。

ちょっとくらいなら・・・という、そのチリツモを76億人の人がやれば、一瞬にして地球は壊れてしまうでしょう…というかすでに一部は壊れてしまっているともいえます。

かといって、汚さない生活ができるかといえば、そうでもありません。

生きること…生活をするということは、汚すこととセットなのです。

それが逃れられない現実なのです。

未来への希望の第一歩、それは意識を持つこと

生きることは、汚し続けること

まず、「これが現実だ」ということを意識すること。
そこからまず、未来が変わっていくのだと思います。

でも、地球に生きている生き物・・・動物や昆虫や植物も、一定量は地球を汚していると言う人もいます。

しかしこの生き物たちは、それが循環の一部になっているのですから、分解されてなくなります。
汚しているというのは、人の感覚にすぎません。

動物は石油を掘ったりしませんしね…

そもそも、人間にとって汚いもの、汚れているものという見方が、そもそも違うのかもしれません。

汚れていいものがあり、汚していけないものがある
汚し方がある

汚し方の作法…それを我々は知らないのかもしれません。

地球の循環の一部になれば汚れない、残れば汚れる

その見極めができれば、私たちは汚すことを減らせるかもしれないのです。

サスティナブルとは、「来た時よりも、もっともっと美しく」

地球のサスティナブル(持続可能)とは、自然の循環が可能な状態のことです。

空気であれば、二酸化炭素の量が木々が呼吸する量を超えると、二酸化炭素が残る。
水であれば、自然で分解(生分解)される量より汚れる量が上回ると、水が汚れる。

人間でも同じですね。

消費カロリーより多く食べれば、脂肪として身体に残る。

産業や生活の向上によって社会が開発されている中で、森の木々が減り、海や川が生分解できるチカラがなくなってきています。

つまり、単に相殺できる量ではなく、それ以上の対策をしていかないと、持続はできないという現実に直面しています。

来た時よりも、美しく。

それくらいでようやく現状維持ができるくらいだから、相当がんばっていかないといけません。

もちろんこれは、親や祖先が未来に残した負の遺産かもしれない。
しかしその人達の努力によって、いまここにある生活という恩恵も受けています。

じゃあ、私たちはどうするのでしょうか?

未来から借り受けたこの地球を汚し、同じように未来の子どもたちに残念な気持ちにさせてしまうのでしょうか。

サスティナブルを本当に実現しようとするなら、

来た時よりも、もっともっともっともっと美しく。

くらいの意識やアクションが必要かもしれません。

そのためには、私たちの意識を変え、ナチュラルな生活をするということだけではなく、テクノロジーのチカラも必要となります。

汚れは、目に見えるものだけではありません。

こじれた関係性、負の感情・・・、らゆる汚れは現代で微生物分解させて、未来に残してはいけません。

本当の美しさを、取り戻しにでかけましょう。

未来の子どもたちに、誇りの持てる祖先であるために。

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