毎朝の朝ごはんを息子と作る
「料理って、工作みたいで楽しいね」
小学2年生の息子が毎日朝ごはんを手伝ってくれます。りんごを剥くのもお手の物。彼にとっては工作でありゲームです。
彼は手伝っているという意識もあるでしょうが、それ以上に楽しんでいます。
どうやったらうまくできるか、毎回工夫をしながら、指先の感覚に集中し、感じて、考えています。
私は疑問に思うのですが、
なぜこれほどに家事の苦手な男性が多いのでしょう。
料理人の多くは男性なのに。。。
工作とゲーム
私は家事を半分くらいしています。
掃除、洗濯、炊事…
こんなに楽しい工作とゲームが毎日できるなんて、私は楽しくて仕方ありません。
一つ一つクリアしていく感覚が楽しい。
しかもそのほとんどは子どもと一緒の共同作業/共同制作です。
子どもの心を乗せて、部屋の片付けもミッションです。
掃除機も大きな道具なので楽しそうです。
何もかもがゲームです。
料理は工作です。
洗濯を畳むのも、折り紙みたいなものです。
2箇所を摘んで一気にTシャツを畳むテクニックを教えたら、ずっとやってます。。。
私は忘れちゃって教えてもらってます。。。
子どもは遊びの天才です。
包丁を扱う「感覚」
最近は、大人の包丁(ナイフ)をそのまま使います。
いま使っている包丁は、私が毎月研いでいる「切れる」包丁です。
最初は「切れない包丁」で少しづつ始め、今じゃ私が使う包丁の方が使いやすいようです。
切れ味が良い方が楽しい!
そりゃそうです。
切れ味が良い/悪いということさえわかるので、私が毎月研いでいる包丁にも興味を持っています。
「石で刃を研ぐ」ということで「研ぐ」意味がわかります。言葉だけじゃなく「感覚」で捉えて、研ぐことや切れること、その切れ味の微妙な感覚で、彼の「感性」を「研ぐ」ことになるのでしょう。
もちろん、危ないです。
彼自身の指もですが、包丁を持っていることが意識から外れて、周囲に危ない影響を及ぼしていることも。
それもまた、理屈ではなく、感覚で身につけていくしかありません。
もしかしたら私たちは、「言葉の刃物」で周囲を傷つけているかもしれません。
「それって、包丁を振り回しているものだよ」と言っても、持ったことすらない人に、実感も湧きません。
持っている包丁が目の前のリンゴの皮を薄く剥いている姿を見て、それがどれほど優れている一方で危険なものかを、両方とも感じることができるのです。
全ての物事は、表裏一体です。
道具も使い方を誤れば危険であり、成功もまた失敗と共にあります。
大人が分類しすぎる
普段の生活の全てが、感性を育むエンターテイメントです。
家事とか仕事とか分類しても意味がなく、生きていくことの一つの過程であり、誰かがやることで何かが進みます。
勉強と遊びもわけられません。
家事をゲームにしちゃいけないわけでもありません。
楽しいこととセットにしてはいけないような、先入観があるのかもしれません。
朝の忙しい時間に子どもにやらせることができないという人もいるでしょう。
我が家は6時に息子と2人で起きて一緒にご飯をつくります。たまに、コーヒーも挽いてドリップしてくれます。
何もない状態が、最高のクリエイティブ環境
親が子どもにできること。
それは、「普段何もない状態でも楽しめるヒント」を体験させることだと思うのです。
ゲームとか教材とかなくたって、
石ころ一つでゲームになる、リンゴの皮むきだってゲームになる、それが学びに変わるんですから。
そんな「視点と解釈をたくさんつくってあげられる」ことが大切だと思います。
何もない状態が、最高のクリエイティブ環境
子どもは、何もなくたって遊べます。全てが学びです。私自身がそうであったように。
そして私は今、仕事がなければ仕事をつくり、どんな危機でも乗り越えるゲームに変え、何もなくても想像して楽しめる体質になっています。
きっと、社会がどんな状況になっても、私は自分を楽しめるんじゃないかとさえ思います。
特別なものは何もいらない。
大人の私たち自身が、何もなくても楽しめることを忘れていませんか?
レジャー施設もなんとかランドもいいですが、そうじゃないと楽しめないわけではありません。
「料理って工作みたいで楽しいね」なんて言いながら、朝ごはんを作る時間が、私にとって、とても貴重な時間です。