曖昧な社会で自由に生きる 〜分類されすぎて、居心地が悪くなった社会

日々の感性

すべては曖昧

この世の中の、すべては曖昧だ。

気持ちだって、
男女だって、
人種だって、

職業なんてのも
大人ということさえも
明確な線引きなんて、ない。

でも、曖昧なままでは居られない世の中だ。

なぜ、曖昧で存在できないのだろうか。

曖昧は、都合が悪い

曖昧であることは、誰かにとって「都合が悪い」こともある。

太古から人は、曖昧であることに不安を覚え続けてきた。
だから、線を引き、分類をし、区別してきた。

安心のために。

人の欲求の一つである「群れる」ために必要なこと。

共通を探して安心することは、人類が生き延びてきた一つの知恵とも言える。

しかし、いくら分類しようが、そもそもが曖昧なのだから、分類には限界があり。

経験や知識、捉え方や気分によっても、常にその分類基準が変化してしまう。

いくら共通項を集めても、
異なるものは残り、
異なりを分類しても、
共通項が生まれる。

全てが一致した人間など、一人としていないのに。
たとえ一卵性双生児であっても、2人の異なる人間だ。

分類されることが、不安になる時代

情報がない時代は、未知への不安は大きくあったに違いない。
知らないもの/異なるものへの警戒があるのは当然だ。

でも現代は違う。
情報が多すぎて困るほどだ。

もう、違うことへの不安を思う必要はない。

無駄に線を引く必要もなく、
壁や溝であっても
もはや遮ることもできない。

分けられることに安心があったにもかかわらず、
分類される居心地の悪さに、
かえって不安に思うことも増えてきた。

セオリーとは?
一般常識とは?
普通とは?
平均とは?

曖昧さを受けきれない、合理主義の社会。
色々な分類で「例外処理」してきた。

もう、同調圧力で例外になることは怖くない。

テクノロジーがその例外たちを繋げて、
マイノリティーが思ったほど少数ではないことを示してくれた。

もう、みやみに恐れる必要は、どこにもない。

分類は幻想だ。我々はもっと自由だ。

我々は、自由だ。

全てが曖昧なのだから、
全てが個性でありオリジナリティなのだ。

もう、となりの人を見る必要もない。
誰かの顔色を伺う必要もない。

全ての分類やそれを測る尺度には意味がない。
なぜなら、全ての軸そのものが曖昧なのだから。

全てを仕切る壁や溝、箱や線といったものは、幻想だ。
もし見えているとしたら、きっと思い過ごしだ。
これまでの教育や環境による、
思い込みと錯覚でしかない。

分類されすぎた居心地の悪い社会は、
自分自身で作っている幻想なのかもしれない。
そう思えば、壁は昔から存在していなかったかのように、消えてなくなることもあるだろう。

そう、我々は自由だ。

無限の選択をしていこう。